一人で作る豆辞典から
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1997年3月20日初稿
1997年5月6日改稿
Web上で、多くの個人により様々な情報発信がなされているが、何を発したらよいかわからないまま、エネルギーが浪費されているのではないかと思われるページが時おり見受けられる。「internet はトイレの落書き」とまで言われることがある。自己の情報発信が社会の役に立つという充足感、社会参加の意欲がWebを通じて得られるように、個人が情報発信しやすい表現形式を作り出すことが必要であろう。事典形式の情報発信は、比較的容易であり、かつ、集積されれば他の人の役にも立つので、この目的に合致する。下記の[図1]は、そのような趣旨で作り始めた豆事典のスクリーンショットの一部である。
[図1] |
事典は、項目が多ければ多いほど有用となる。一人の力には限りがあるので、共同して大事典を作ることが望まれる。最初から統一的な共同作業をすることもよいことであるが、Web上では、各自が自分の豆事典のために自由に作成した説明文を編集して大事典にする方が、作りやすいであろう。手順は、次のようになる。
World Wide Webは、世界の人々が自由に情報を提供し、簡便に取得するためのネットワーク利用である。リンクは、その情報流通に不可欠な道であり、人と人とを結び付ける糸である。リンクの否定は、Webの否定である。HTML文書へのリンクの自由は、基本的に維持されるべきである。リンクの自由を根拠に、前記のような大事典が自由に編集されることは、本来望ましいことである。
しかし、それは、「私語」の説明が書いてある部分に他人の著作物が表示されるようにリンクを張ることが自由であることを意味する。ところが、その文書を含むウインドー全体には、「栗田隆 編」という大きめの表題がある。はたして、これがリンクの自由として許されるのであろうか。
同様な問題が、新聞社・放送会社などが記事を読者誘因材料にして広告料収入を得て運営しているWebのページを他の会社がウィンドーをフレイム分割して、その一部(サブウインドー)にそのWebページが表示されるようにリンクをはり、同一ウインドーの他の部分(サブウインドー)に自社の表示と自社が集めた広告を掲載すること(記事のただ乗り的利用)が許されるかという形で生ずる。合衆国のTotalnewsという会社がこのようなリンクをはり、リンク先の有名新聞社・放送会社との間で訴訟となった(注*)。
(注*) 朝日新聞東京本社1997年4月23日33頁(第3社会13版)「世界の電子ニュースを広告付で無断提供」[松浦康彦]参照。
Webによる著作物の伝送は、著作権法上は有線送信(著作権法2条1項17号)と位置付けられる。有線送信は、有線放送とその他の有線送信とに分類され、有線放送は、「有線送信のうち、公衆によつて同一の内容の送信が同時に受信されることを目的として行うものをいう」と定義されている。HTTPによる有線送信は、現在では有線放送に近い面があるが、それでも、厳密な意味で「同時」に「同一内容」の送信がなされているわけではなく、有線放送以外の有線送信に含めてよいであろう。むしろ、重要なのは、次のことである。
これら2つの特徴のうち、第1の特徴は、他の送信形態においても、程度の差はあれ、見られうることである。ただ、HTTPにあっては、形成内容がブラウザー用のプログラムの種類やその設定に依存する度合が大きい(例えば、画像の表示の省略や表示される画像の色深度の違いがある。バックグラウンドの画像も省略できる)。そして、第2の特徴は、おそらく他の有線送信形態ではほとんど見られないことであろう。この特質があるために、現時点(1997年3月の時点)では、リンクにより、例えば、次のようなことが技術的に可能である。
これらの問題のうち、2-1の問題は、JavaScriptを用いてかなり解決することができる。例えば、"test.html"というファイルが他人によりただ乗りされることを防ぐためには、<BODY>タグを次のように書き直せばよい(Netscape社のJavaScriptについてのHandbookを参照)。
<BODY onLoad=" if (top.location != self.location) open('test.html','_top') ">
TOTAL NEWS社に記事をただ乗りされているCNNも、若干異なるスクリプトによってではあるが、同様な対抗措置を取っている(CNNサイトにアクセスして、ドキュメントソースの中のスクリプトも一度参照されたい)。この対抗措置を受けると、TOTANEWS社のWindowが消されてしまうので、TOTANLEWS社は、CNNへのリンクについては、Target Windowを新規のウインドーにしている(TARGET="_new")(注*)。
(注*)この方法も決して万能ではない。受信者の使用するスクリーンの大きさが様々であることを考慮して、著作者が自己のファイルをフレームのなかに表示する形で利用すると同時に、独立のウィンドーに表示する形でも利用している場合には、この方法はとれない。
他方、その他の問題は、現時点(1997年3月の時点)において普及しているHTTPに関する技術の下で生ずる問題であり、画像ファイルやHTML文書の著作権者が適当な措置をとることにより第三者のこうした行為を阻止する技術は、次のことを考慮すれば、近い将来において普及可能と思われる。
こうしたことを考慮すれば、ここで取り上げる問題は、今の時点でのみ意味のある法律問題なのかもしれない。しかし、それでも著作権法の視点から第三者の上記のようなリンクないしファイルのソース指定の行為が許されるべきか否かは、検討の価値があると思われる(注*)。なお、現行著作権法が、こうした事態を予想して立法されたようには思われないので、上記の問題の解決は、現行著作権法の解釈に委ねられる(注**)。妥当な解決は何かということと共に、解釈の限界は何かが問われよう。
(注*) それは、次の理由による。(a)上記の防止技術が普及するまでの間の行為規範を明確にする必要がある。(b)上記のような問題は、今後も他の形態の有線送信において生ずる可能性がないとはいえない。(c)上記のようなリンクないしファイルのソース指定が著作権法上許されないとの結論に達すれば、上記の保護技術は、著作権法により保護される利益のために迅速に開発され普及されるべきことになる。保護技術があるから、著作権法上の問題は生じないというのは、適当ではない。
(注**) その他に、これらの行為が不正競争防止法により禁止されるか、あるいは民法上の不法行為に当たるか否かも問題となるが、ここでは立ち入らない。
現在、Webでは、多くの著作物が無償で有線送信されている。その意味では、その経済的効用は小さい。しかし、無償で送信されていることは、経済的効用を有しないことを意味しない。読者を吸引すること自体に経済的効用があると言うべきであろう。そのことは、バーナー広告と結びついた記事に特に顕著である。吸引力のある記事と抱き合わせる形で広告を掲載することにより、広告収入を得ることができる。大学の場合には、吸引力のある文書を掲載することにより、大学の知名度を上げることができ、それは他の媒体による広告経費の節約となろう。
良質の情報が無償で社会に提供されることは、素晴らしいことである。それこそ文化の発展への寄与であろう。それがこれからも継続的に行われるようにするためには、Webを通じて送信される著作物の読者吸引力を保護することが必要であり、吸引力のある著作物のただ乗り的利用を禁止することが必要であろう。 それが、著作権法により可能かどうかが、問題である。
World Wide Webは、クモの巣のように張られたリンクの集合体であり、他のサイトのファイルへのリンクは、Webにとって重要な要素である。マウスボタンをクリックすれば関連する情報に簡単にアクセスすることができるというhyper text link の否定は、Webの否定である。それゆえ、linkの自由の原則が維持されるべきである。Webには、自由にリンクされてもかまわない情報を掲載すべきであり、リンクされては困るような情報を掲載すべきではないという主張も、その意味で説得力がある。
しかし、読者を吸引する力のある著作物がWebに掲載され、文化が発展することを望むのであれば、Web上の著作物の経済的価値(読者吸引力)を保護するために、リンクの自由に限界を設けて良い時期にきているのではなかろうか。Webの発展が時代の変化をもたらし、時代の変化はWebの益々の発展のためにリンクの自由に限界を設けることを求めていると考えたい。
他人の画像ファイルを自己のHTML文書の中でソース指定することの問題の特徴は、次の点にある。
それゆえ、この場合に、その画像ファイルをソースとして指定したHTML文書の作成者がその画像を利用しており(注*)、このような形での他人の著作物たる画像の利用についても画像の著作者の許諾が必要であるとの結論を求める社会的需要は大きい(詳しくは、栗田隆「Web出版における引用について」の中の3.参照)。
(注*) この場合に、有線送信の受信者が画像を利用していると理解するのは、適当でない。現行法上は、受信行為を著作権者の支配に服させる旨の規定はなく、受信行為は送信者との間の契約等で規律されるべきことであり、それは、著作権法の範囲外の問題である。栗田隆「著作権法から見たHTTPとFTP」を参照。
とはいえ、この結論を現行著作権法の規定を基に説明するとなると、必ずしも容易ではない。この場合の画像の利用形態は有線送信であるが、有線送信の依頼を直接しているのは、受信者のコンピュータであり、HTML文書の著作者ではないからである。しかし、受信者が閲読する内容は受信されたHTML文書の内容に基づき受信者のコンピュータ上で自動的に形成されることがHTTPという有線送信の特質であることを考慮すれば、HTML文書の著作者がその画像の著作物を自動的に有線送信させる形で利用し、そのような利用も著作権法23条の有線送信権に服すると考えてよいであろう(栗田隆「Web出版における引用について」を参照) 。
では、一つのウインドーの中のあるフレイムの中に他人のHTML文書が表示される場合、例えば、[図1]の説明文が第三者のサイトにある第三者の著作物である場合はどうか。議論の準備として、画像ファイルとHTMLファイルとの差異を見ておこう。
この差異の中に示されるHTML文書の特質(独立性)が維持される限り、HTML文書へのリンクは簡便な参照指示として許されるべきである。ところが、Webのブラウザーにフレイム機能が現れてから、様子は異なってきた。HTML文書が、フレイム分割されたウンドウー内に表示される部品としても取り扱うことができるようになったのである。このことから、HTML文書について、次の2つの問題が生ずることになった。
これらの問題は、「みんなで作る大事典」との関係でも重要なことであるが、経済的には、最近よく見られるようになった、Web上のバーナー広告との関係で特に重要であろう。サーバー運営者にとって広告料が重要な収入であり、記事は読者を引きつけるためのものである場合には、記事と広告とは常に一体的に表示されなければならない。フレイム分割すれば、バーナー広告と記事とを別のフレイムに表示して、読者のクリック行為に応じて記事のみを入れ換えることにより送信データの量を削減することができる。その場合に、記事の入っているHTML文書のみにリンクが張られ、有線送信させられることは、営業の妨げとなる。最も困るのは、次のことであろう。
ただ、これは、上記の1と2とが同時に問題となるケースであり、1もしくは2の問題が否定されれば、これも許されなくなるので、独立して取り上げなくてもよいであろう。
「一人で作る豆事典」の場合と同様に、「みんなで作る大事典」においても、ウインドーをフレイム分割し、一つのフレイムには索引をおき、別のフレイムに説明文を置くのがよいであろう。そして、事典編集者の名前が適当なフレイムに表示される。冒頭にあげた豆事典のサンプルを元にして言えば、「私語」の説明が書いてある部分に他人の著作物が表示されるのである。その文書を含むウインドー全体には、「栗田隆 編」という大きめの表題がある。
このような形で他人の文書を有線送信させることが許されるか否かの問題は、次の2つの視点から議論することができる。
(a)氏名表示権
[図1]では、著作者を明確にするために、著作者名を意図的に文書の始まりに表示してあるので、氏名表示権の侵害が生ずることはないが、次のような場合には、著作者の意図した形で氏名が表示されないことがあろう。
このような場合に、氏名表示権を定める著作権法19条は、どのように適用されるのであろうか。氏名表示権は、著作物を公衆に提示する形で利用する者との関係では、著作者の希望する方法で氏名が表示されることを求める権利であると考えてよいであろう。ここでいう著作物の利用(19条2項)を著作権に服する利用方法(複製や有線送信)に限定すべきか否かが問題となる。もしそのような限定を付せば、そしてリンクを張ることが著作権に服する利用行為に当たらないと考えれば、リンクを張る者が氏名表示権を侵害することはないことになろう。しかし、氏名表示権をそのように狭く考えるのが適当とは思われない。著作者は自己の著作物を通して社会的名声を得ることに利益を有しており、そのような利益も氏名表示権による保護の対象となると考えたい。そうであれば、HTML文書にリンクを張ることが著作権に服する利用行為であるか否かにかかわらず、HTML文書にリンクを張る者は、著作物が受信者に表示される際に、著作者が意図した形でまたはこれと同等な形で著作者名が表示されるようにリンクを張る義務を負うと考えるべきであろう。このことを前提にすれば、上記の2つの場合についての答えは、次のようになろう。
(b)同一性保持権
著作者は、「その著作物及びその題号の同一性を保持する権利を有し、その意に反して
これらの変更、切除その他の改変を受けない」ものとされている(著作権法20条1項)。ある者が記述したHTML文書に基づきウインドーの一部であるフレイム内に別の者の著作物が表示される場合には、その著作物の直接的な変更や切除がなされるわけではない。同一のウインドー内で他の文書や図画と一緒に表示されるにすぎない。しかし、そのこと自体を問題にする余地はある。著作者は、自己の著作物が他の文書や図画と密接な関係をもって表示される場合には、関係する文書や図画の内容によっては、人格的利益を害されることがある。例えば、卑猥な図画を背景にして精神性の高い詩が表示される場合がそうである。この場合には、少なくとも113条3項により著作者人格権の侵害行為となりうる。しかし、今問題にしているような形での大事典の編集においては、113条3項にいう「著作者の名誉または声望」が害される事態はあまり予想できない。
その点はともあれ、著作者が意図したのとは異なる著作物と共に同一のウインドー内に著作物が表示されるようにリンクを張ることが、同一性保持権と侵害となる余地があることは認めつつも、ここではその点について立ち入らずにおこう。前述のバーナー広告の設例は人格権の問題と言うより財産的利益の問題であり、当面する問題を著作権の問題として考える必要性が高いからである。
ウインドーの一部であるフレイム内に他人の文書が表示されるようにすることは、その他人の文書を利用したと見るべきであろうか。この点については、次の2つの見解がありえよう。
著作権法は、こうした問題まで想定して立案されているわけでない。したがって、一つのウインドーの一部であるフレイム内に他人の文書が表示されるようにフレイム設定等をすることを現行著作権法は放任している、と見るのが素直なのかもしれない。そしてまた、ネットワーク研究会では、その趣旨の見解があるメンバーから有力に主張された。
しかし、それでも、先程の豆事典の画面に他人の著作物が無断で表示されることは、許容し難い。第1の見解にしたがっても、他人の著作物がフレームを記述するHTMLドキュメントにおいてソース指定されている場合には、画像のソース指定の場合と同様に考えてよく、したがって、そのような形で他人のHTML文書を利用すること(有線送信させること)は許されないことになる。その場合と、受信者のクリック行為により有線送信がなされる場合との間に、重要な差異があるとは思われない。受信者は、クリックするか否かの選択はできても、クリックの結果どのような文書がどこに表示されるかを決定できるわけではないからである。
また、HTML文書の読者吸引力は、その文書と関係付けられた広告や著作者名等の表示と一体となって経済的効用を発揮するのであり、そのHTML文書と同一のウインドーに表示される広告や組織名が増えれば増えるほど経済的効用は低下する。著作物が有する吸引力も、有線送信権により保護されるべき経済的価値と考えるべきであろう。それゆえ、解釈論の限界を踏み越えているとの批判を覚悟しつつ、HTTPの特性にあわせて有線送信権の概念を拡張し、第2の見解を取りたい。
以上のことを前提にすれば、「みんなで作る大事典」の各項目の説明文ファイルについては、フレイム内に表示される形で利用することを一般的に許諾する宣言が必要となる。他方、第一の見解に従った場合には、その宣言が必要であるとは言えないが、それでも、大事典の構築を円滑にするために、その宣言があることが望ましい。
「みんなで作る大事典」において、説明文の著作者からフレイム内に表示することの許諾が得られない場合に、大事典の編集者がとりうる安全な方法は、索引とは別個のウインドーに説明文が表示されるようにすることである(注*)。
(注*) 例えば、<base target="explaine">のタグを索引の最初に置けばよいことであり、簡単にできる。
これであれば、他人のHTML文書をフレイム分割したウインドー内に表示されるようにしたとの批判を避けることができる。しかし、その他人が部品として使用しているHTMLファイルを他の部品(文章や画像)から切り離して表示する結果となる。その結果、リンク先のHTML文書の読者吸引効果が害されることがある。それゆえ、そのようなリンクが著作権法上許されるかが、問題となる。同様な問題は、画像ファイルが読者吸引材料として使用されている場合にも生じよう。両者の違いは、次の点にある。
こうした状況を考慮して、著作権法を離れて、いわば、社会的なエチケットとしてリンクの自由の限界を定めるならば、次のようになろう。
問題は、そのようなルールを著作権法上の規範として現時点(1997年3月ないし4月)において設定することが可能かである。とりわけ、HTML文書について、著作権者がリンクの禁止を明示した場合には、リンクが許されないとすることは、結局すべてのHTML文書について著作権者にリンクの許可・不許可を決定する権利があることになろう。そして、現在のリンクの自由は、HTMLファイル(特に、ファイル名の末尾がhtmないしhtmlとなっているファイル)については、著作権者がリンクを承諾していると推定してよいとの経験則の上に成り立っていると言うことになる。しかし、それではリンクを張っている者の法的地位が不安定になりすぎないだろうか。
著作権法違反の非難を受ける虞なしにリンクを張ることができるようにする一つの方法としては、第三者のリンクを禁止する場合には、その趣旨をファイル名の末尾にhtmlまたはhtm以外の接尾辞(例えば、htpl)を付すことにより表示するということが考えられる(栗田隆「このサイトのファイルへのリンクについて」参照)。そのような慣行がまだ確立されていない現段階では、この点の問題がもっと議論され、適当な慣行が成立するまで、結論を先送りにせざるをえない。
他方、HTMLファイル以外のファイルについては、リンクの自由を認める必要は少なく、著作者の利益の保護のために、現時点において、HTMLファイル以外のファイルへのリンクは、有線送信権に服するとしてよいであろう。したがって、これについては、独立のウインドーに表示されるようなリンクについても著作権者の同意が必要であると考えたい。
「みんなで作る大事典」においては、適当な者が大事典の目的に照らして適当な索引ファイルを作ることが想定されている。その索引ファイルは、見出語とその説明が書いてあるファイルの所在(URL)ならびにその他の補助的な事項を一つの項目として、その項目を多数集めたファイルである。個々の項目は、単なる事実の記載であり、創作性はない。しかし、全体としての索引ファイルが編集著作物となる余地はある。編集著作物となるための要件は、「素材の選択又は配列によつて創作性を有する」ことである(著作権法第12条)(注*)。索引ファイルにあっては、各項目は、通常、アイウエオ順に並べられるが、一般に、そのような機械的配列には創作性はないとされている。各項目の収集には相当の労力が必要であるが、収集の労力は創作性の根拠にはならないとの見解が有力である。
(注*) 事実作品の著作物性に関する合衆国の議論につき、小泉直樹『アメリカ著作権制度』(弘文堂、1996年)44頁以下参照。
しかし、索引ファイルの作成に当たっては、各項目の説明を見て、適切な説明と不適切な説明を判別することが必要となろう。素材の選択であり、多くの場合に、この点に創作性が認められよう。その場合には、索引ファイル自体が著作物として保護される。
索引ファイルをデータベース化して、用語検索できるようにすれば、データベースとなる。データベースも、創作性が認められれば、著作物として保護される(著作権法第12条の2)。
大事典の索引ファイルの作成を容易にするために、説明文の作成者が自分の作成した説明ファイルの索引ファイルを作成して、一般の利用に供することが必要となる。この索引ファイルが、著作物として保護されるか、つまり、創作性を有するかが問題となる。説明する項目の選択自体に創作性があれば、索引ファイルにも創作性があると言うべきであろう。しかし、説明すべき項目がアトランダムに選択されているような場合には、創作性は認められないであろう。
その点はともあれ、無用なトラブルないしトラブルの心配を避けるために、各自が作る索引ファイルについても、利用(複製、有線送信および改変)を一般的に許諾する宣言がなされることが望ましい。
以上の著作権処理を行うことにより、冒頭で述べたような形で大事典をみんなで作ることが著作権法上は可能となる。情報処理技術上の問題の検討は、これからである(索引ファイルのフォーマットの提案と参加者の登録が中心の比較的簡単な問題である)。そして、その問題が解決されても、賛同者なしのために私のプランが豆事典にとどまるのかもしれない。しかし、それでもよいとしよう。