一人で作る豆辞典から |
1997年3月20日初稿
1997年3月22日改稿
本稿は、1997年4月9日改稿前の旧稿1である
Web上で、多くの個人により様々な情報発信がなされているが、何を発したらよいかわからないまま、エネルギーが浪費されているのではないかと思われるページが時おり見受けられる。「internet はトイレの落書き」といった表現まで現れている。自己の情報発信が社会の役に立つという充足感、社会参加の意欲がWebを通じて得られるように、個人が情報発信しやすい表現形式を作り出すことが必要であろう。事典形式の情報発信は、比較的容易であり、かつ、集積されれば他の人の役にも立つので、この目的に合致する。下記の[図1]は、そのような趣旨でつくり始めた豆事典のスクリーンショットの一部である。
[図1] |
事典は、項目が多ければ多いほど有用となる。一人の力には限りがあるので、共同して大事典を作ることが望まれる。最初から統一的な共同作業をすることもよいことであるが、Web上では、各自が自分の豆事典のために自由に作成した説明文を編集して大事典にする方が、作りやすいであろう。手順は、次のようになる。
以上のようにして、大事典が編集された場合に生ずる著作権法上の問題を検討することにしたい。
Webによる著作物の伝達は、著作権法上は有線送信(著作権法2条1項17号)と位置付けられている。有線送信は、有線放送とその他の有線送信とに分類され、有線放送は、「有線送信のうち、公衆によつて同一の内容の送信が同時に受信されることを目的として行うものをいう」と定義されている。httpによる有線送信は、現在では有線放送に近い面があるが、それでも、厳密な意味で「同時」に「同一内容」の送信がなされているわけではなく、有線放送以外の有線送信に含めてよいであろう。むしろ、重要なのは、次のことである。
これら2つの特徴のうち、第1の特徴は、他の送信形態に於ても程度の差はあれ見られうることである。ただ、httpにあっては、形成内容がブラウザー用のプログラムの種類やその設定に依存する度合が大きい(例えば、画像の表示の省略や表示される画像の色深度の違いがある。バックグラウンドの画像も省略できる)。そして、第2の特徴は、おそらく他の有線送信形態ではほとんど見られないことであろう。それゆえ、著作権法も、第2の特徴に起因する次のような問題は、まったく想定しておらず、それらについて特別の規定を設けていない。
上記の問題の中で第1の問題の特徴は、次の点にある。
それゆえ、この場合に、その画像ファイルをソースとして指定したhtml文書の作成者がその画像を利用しており(注1)、このような形での他人の著作物たる画像の利用についても画像の著作者の許諾が必要であるとの結論は、比較的容易に正当化されよう。
とはいえ、この結論を現行著作権法の規定を基に説明するとなると、必ずしも容易ではない。この場合の画像の利用形態は有線送信であるが、有線送信の依頼を直接しているのは、受信者のコンピュータであり、html文書の著作者ではないからである。しかし、受信者が閲読する内容は受信されたhtml文書の内容に基づき受信者のコンピュータ上で自動的に形成されることがhttpという有線送信の特質であることを考慮すれば、html文書の著作者がその画像の著作物を自動的に有線送信させる形で利用し、そのような利用も著作権法23条の有線送信権に服すると考えてよいであろう(栗田隆「Web出版における引用について」を参照) 。
但し、このことは、送信プログラムの機能にも依存しよう。すなわち、送信プログラムの機能が拡張され、一定の種類のファイルについては一定のリンク元からの送信依頼しか受け付けないという機能が具備されれば、「html文書の著作者がその画像の著作物を自動的に有線送信させる形で利用し、そのような利用も著作権法23条の有線送信権に服する」という上記の議論は、多くの場合に必要ない。そして、技術の進歩に応じて著作権法が改正されることは当然であるが、その解釈が変動することがどの範囲で許されるかは、好ましいことではない。
しかし、次のことを考慮すれば、少なくとも現在の時点(1997年3月)においては、技術の急速な進歩に応じて将来において解釈が変わる可能性があることを留保しつつも、上記のように主張しておいてよいであろう。
では、一つのウインドーの中のあるフレイムの中に他人のhtml文書が表示される場合、例えば、[図1]の説明文が第三者のサイトにある第三者の著作物である場合は、どうか。議論の準備として、画像ファイルとhtmlファイルとの差異を見ておこう。
この差異の中に示されるhtml文書の特質(独立性)が維持される限り、html文書へのリンクは簡便な参照指示として許されるべきである。World Wide Webは、クモの巣のように張られたリンクの集合体であり、リンクの否定は、Webの否定であり、html文書にリンクを張ることには、Webの出発の当初においては、当然のことであった。
ところが、Webのブラウザーにフレイム機能が現れてから、様子は異なってきた。html文書が、フレイム分割されたウンドウー内に表示される部品としても取り扱うことができるようになったのである。この段階で、部品として扱われそれゆえ第三者によるリンクが原則的に禁止されるべきものと、独立性が強く、それゆえ参照指示として自由にリンクをはることができるものとを適当な方法で区別する慣行が形成されればよかったのであるが、その慣行ができないまま、現在に至っている。このことから、html文書について、次の2つの問題が生ずることになった。
これらの問題は、「みんなで作る大事典」との関係でも重要なことであるが、経済的には、最近よく見られるようになった、Web上のバーナー広告との関係で特に重要であろう。サーバー運営者にとって広告料が重要な収入であり、記事は読者を引きつけるためのものである場合には、記事と広告とは常に一体的に表示されなければならない。紙面作成の都合で、広告と記事を別のフレイムに表示している場合に、記事の入っているhtml文書のみをリンクされることは、営業の妨げとなる。最も困るのは、次のことであろう。
ただ、これは、上記の1と2とが同時に問題となるケースであり、1もしくは2の問題が否定されれば、これも許されなくなるので、独立して取り上げなくてもよいであろう。
「一人で作る豆事典」の場合と同様に、「みんなで作る大事典」においても、ウインドーをフレイム分割し、一つのフレイムには索引をおき、別の索引に説明文を置くのがよいであろう。そして、事典編編集者の名前が適当なフレイムに表示される。冒頭にあげた豆事典のサンプルを元にして言えば、「私語」の説明が書いてある部分に他人の著作物が表示されるのである。その文書を含むウインドー全体には、「栗田隆 編」という大きめの表題がある。
このような形で他人の文書を有線送信させることが許されるか否かの問題は、次の2つの視点から議論することができる。
まず、著作者人格権の視点から見ると、ウインドーを構成するフレイム内に文書が表示されると、著作者が誰であるのかが不明確になる場合がある。[図1]では、著作者を明確にするために、著作者名を意図的に文書の始まりに表示してあるが、場合によれば、ウインドーのタイトル部分にのみ表示される場合もあろう。ところが、他人の文書がフレイム内に表示される場合には、ウインドーのタイトル部分には、フレイムを記述するhtml文書において記述されたタイトルのみが表示され、この点で、氏名表示権が侵害される虞がある。ただ、現実には、氏名表示がタイトル部分にのみなされるということは少ない。
著作者は、「その著作物及びその題号の同一性を保持する権利を有し、その意に反して これらの変更、切除その他の改変を受けない」(著作権法20条)ものとされている(著作権法20条1項)。ある者が記述したhtml文書に基づきウインドーの一部であるフレイム内に別の者の著作物が表示される場合には、その著作物の直接的な変更や切除がなされるわけではない。同一のウインドー内で他の文書や図画と一緒に表示されるにすぎない。しかし、そのこと自体を問題にする余地はある。著作者は、自己の著作物が他の文書や図画と密接な関係をもって表示される場合には、関係する文書や図画の内容によっては、人格的利益を害されることがある。例えば、卑猥な図画を背景にして精神性の高い詩が表示される場合がそうである。この場合には、少なくとも113条3項により著作者人格権の侵害行為となりうる。しかし、今問題にしているような形での大事典の編集においては、113条3項にいう「著作者の名誉または声望」が害される事態はあまり予想できない。同一性保持権自体の侵害の余地も、肯定できないわけではないが、今は、その点について結論を出さずにおこう。前述のバーナー広告の設例は人格権の問題と言うより財産的利益の問題であり、また、著作権が譲渡された場合を考慮すると、当面する問題を著作権の問題として考える必要性が高いからである。
あるウインドーの一部であるフレイム内に他人の文書(説明文)が表示されるようにした場合に、そのhtml文書の作成者(大事典編集者)はその他人の文書を利用したと見るべきであろうか。この点については、次の2つの見解がありえよう。
著作権法は、こうした問題まで想定して立案されているわけでない。したがって、一つのウインドーの一部であるフレイム内に他人の文書が表示されるようにフレイム設定等をすることを現行著作権法は放任している、と見るのが素直なのかもしれない。そしてまた、ネットワーク研究会では、その趣旨の見解があるメンバーから有力に主張された。
しかし、それでも、先程の豆事典の画面に他人の著作物が無断で表示されることは、許容し難い。第1の見解にしたがっても、他人の著作物がフレームを記述するhtmlドキュメントにおいてソース指定されている場合には、画像のソース指定の場合と同様に考えてよく、したがって、そのような形で他人のhtml文書を利用すること(有線送信させること)は許されないことになる。その場合と、受信者のクリック行為により有線送信がなされる場合との間に、重要な差異があるとは思われない。受信者は、クリックするか否かの選択はできても、クリックの結果どのような文書がどこに表示されるかを決定できるわけではないからである。それゆえ、解釈論の限界を踏み越えているとの批判を覚悟しつつ、httpの特性にあわせて有線送信権の概念を拡張し、第2の見解を取りたい。
以上のことを前提にすれば、みんなで作る大事典の各項目の説明文ファイルについては、フレイム内に表示される形で利用することを一般的に許諾する宣言が必要となる。他方、第一の見解に従った場合には、その宣言が必要であるとは言えないが、それでも、その宣言がある方が望ましいであろう。
説明文の著作者からフレイム内に表示することの許諾が得られない場合に、大事典の編集者がとりうる安全な方法は、索引とは別個のウインドーに説明文が表示されるようにすることである(注2)。
これであれば、他人のhtml文書を自分がフレイム分割したウインドー内で利用したとの批判を避けることができる。しかし、その他人が部品として使用しているhtmlファイルを他の部品(文章や画像)から切り離して表示する結果となる。そのようなリンク(独立リンク)が許されるか否かが検討されなければならない。
もしそのようなリンクも禁止するとなると、次のような問題が生じよう。
他方、そのようなリンクが法的には許されるとした場合には、そのようなリンクに対して著作者の側は次のような対抗措置を取ることができよう。
以上のことを考慮して、著作権法上の取扱いをどうするか。社会的なルール(エチケット)をどのようにするかが、問題となる。次のように考えたい。
World Wide Webは、世界の人々が自由に情報を提供し、簡便に取得するためのネットワーク利用である。リンクは、その情報流通に不可欠な道であり、人と人とを結び付ける糸である。html文書へのリンクの自由は、基本的に維持されるべきである。著作権の視点からhtml文書リンクの自由を制限することは適当でない。html文書は部品として使用されるとは限らないものであり、部品として使用されることを理由に独立のリンクを中止させたいのであれば、上記のような対抗措置(そのうちの1番目の措置)をとるべきである。
もちろん、著作者が明示的にリンクを禁止している場合、あるいはhtml文書が部品として使われている場合に、第三者がそのファイルにリンクを張ることは、好ましいことではない。しかし、それは多くの場合、社会生活上のエチケットにとどまろう。
但し、そのようなリンクが著作者の利益を違法に侵害する結果となり、リンクを張る者がその損害発生を予見できる場合には、民法709条の損害賠償義務が発生し、その意味でリンクが禁止されることはある。例えば、バーナー広告と共に使われている記事について独立のリンクをはって記事の誘因効果を低下させる場合には、損害賠償義務が生ずることはありうる。しかし、その前提としては、次のことが必要であろう。
そして、リンクを張ったことにより損害賠償義務が認められる場合が存在するとしても、それは、そのような例外的な場合における自由の制限ないし自由の限界付けであり、html文書へのリンクの自由はやはり確認されるべきである。
なお、htmlファイル以外のファイル(画像ファイル)については、独立のリンクを張る必要は少なく、また、一般には行われていない。かつ、それらは部品として使用されるのが通常のファイルであるので、それらへの独立リンクを著作者が禁止できるように有線送信権の概念を拡張する余地はあるが、ここでは立ち入らないことにしよう。画像ファイル等については著作者の表示が画像を取り込むhtmlファイルのなかでなされている場合に、そのhtmlファイルにリンクを張らずに、画像ファイルに直接リンクを張ることは、氏名表示権の侵害となることを確認するに止めたい。
みんなで作る大事典においては、適当な者が大事典の目的に照らして適当な索引ファイルを作ることが想定されている。その索引ファイルは、見出語とその説明が書いてあるファイルの所在(URL)ならびにその他の補助的な事項を一つの項目として、その項目を多数集めたファイルである。個々の項目は、単なる事実の記載であり、創作性はない。しかし、全体としての索引ファイルが編集著作物となる余地はある。編集著作物となるための要件は、「素材の選択又は配列によつて創作性を有する」ことがある(著作権法第12条)(注3)。索引ファイルにあっては、各項目は、通常、アイウエオ順に並べられるが、一般に、そのような機械的配列には創作性はないとされている。各項目の収集には相当の労力が必要であるが、収集の労力は創作性の根拠にはならないと見解が有力である。
しかし、索引ファイルの作成に当たっては、各項目の説明を見て、適切な説明と不適切な説明を判別することが必要となろう。素材の選択であり、多くの場合に、この点に創作性が認められよう。その場合には、索引ファイル自体が著作物として保護される。
索引ファイルをデータベース化して、用語検索できるようにすれば、データベースとなる。データベースも、創作性が認められれば、著作物として保護される(著作権法第12条の2)。
大事典の索引ファイルの作成を容易にするために、説明文の作成者が自分の作成した説明ファイルの索引ファイルを作成して、一般の利用に供することが必要となる。この索引ファイルが、著作物として保護されるか、つまり、創作性を有するかが問題となる。説明する項目の選択自体に創作性があれば、索引ファイルにも創作性があると言うべきであろう。しかし、説明すべき項目がアトランダムに選択されているような場合には、創作性は認められないであろう。
その点はともあれ、無用なトラブルないしトラブルの心配を避けるために、各自が作る索引ファイルについても、利用(複製および有線送信)を一般的に許諾する宣言がなされることが望ましい。
以上の著作権処理を行うことにより、冒頭で述べたような形で大事典をみんなで作ることが著作権法上は可能となる。情報処理技術上の問題(注4) の検討は、これからである。そして、その問題が解決されても、賛同者なしのために私のプランが豆事典にとどまるのかもしれない。しかし、それでもよいとしよう。
(注1) この場合に、有線送信の受信者が画像を利用していると理解するのは、適当でない。現行法上は、受信行為を著作権者の支配に服させる旨の規定はなく、受信行為は送信者との間の契約等で規律されるべきことであり、それは、著作権法の範囲外の問題である。栗田隆「著作権法から見たHTTPとFTP」を参照。(本文に戻る)
(注2) 例えば、<base target="explaine">のタグを索引の最初に置けば、良いことであり、簡単にできる。(本文に戻る)
(注3) 事実作品の著作物性に関する合衆国の議論につき、小泉直樹『アメリカ著作権制度』弘文堂、1996年44頁以下参照。(本文に戻る)
(注4) 索引ファイルのフォーマットの提案と参加者の登録が中心となる簡単な問題である。(本文に戻る)