関西大学法学部教授
栗田 隆
本日は、関西大学千里山キャンパスにおいていただき、ありがとうござます。
関西大学法学部では、多数の先生が、さまざまなテーマで講義をしております。私の授業は、多数の講義の中の一つに過ぎませんが、私の本日の模擬授業を通して、大学の授業がどのようなものかを感じ取っていただければ幸いです。
まずは、私の専門領域を紹介しましょう。私人間の法的紛争を解決し、権利の実現を図るための手続を定めた法を一まとめにして、民事手続法といいます。その代表例は、民事訴訟法、民事執行法、破産法です。私は、この法領域の授業を担当しております。今日は、その全体を眺めるのではなく、2つのトピックをお話します。
手続法は、基本的に、権利者の権利を実現するための法律です。いわば、強者のための法律です。しかし、世の中は、強い人もいれば、弱い人もいるのです。強い人だけが生き残れば良いというわけではありません。多くの人が、弱さを抱えながらも幸福に生きようとしています。
日本国憲法13条は、「幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と定めています。この規定は、民事手続法にも妥当します。債権者の幸福追求も重要ですが、債務者の幸福追求も尊重されなければなりません。 民事手続法の領域において、債務者の幸福追求がどのように配慮されているかを、2つの制度を例にして説明します。
人間は、一人では非力なものです。どんなに優れた人間でも、離れ小島での独り暮らしにより得られる物質的豊かさは、限られています。人間は、他人と協力することにより生活の安定と経済的豊かさを得ることができるのです。人と人との協力において最も重要なものは、相互の信頼です。経済取引における信頼は、信用と呼ばれます。特に金銭を貸与するときの信用が重要です。何らかの事情で相手が契約を履行しなくなったときに契約履行を強制する手段のない場合より、強制手段のある場合の方が相手を信用しやすいのです。強制手段は、民事執行法に規定されています。民事執行法は、信用秩序の基盤の一つです。
同時に、財産的権利の強制的実現は、憲法29条が定める財産権の保障の一つとしても重要です。憲法29条2項は、「財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める」と規定しています。そこに言う「公共の福祉」の内容をどのように考えるのかは、見解が分かれますが、ともあれ、次の2つのことが重要です:
民事執行には4つの種類のものがありますが、そのうちで最も基本的なものは強制執行です。これは、私人が自分の権利を暴力を用いて実現してはならないとの原則(自力救済禁止の原則)を前提にして、国家の執行機関が一定の条件の下で私人の権利を強制的に実現するものです。
執行により実現されるべき権利を執行債権といいます。権利の強制的実現方法は、執行債権の種類によって異なります。金銭債権の強制的実現のためには、一般に、次の手順がふまれます。
差し押さえられる財産が動産である場合には、執行官が執行機関になります。
金銭債権の取り立てのためならば、債務者の動産をなんでも差し押さえることができるかというと、そうはなっていません。強制執行を受ける債務者も社会の一員です。社会の一員として相応しい生活を送ることができるように、最低限度の生活を営むのに必要な動産は、債務者に留保されます。例えば、日常生活に必要な布団や衣服の類がこれにあたります。民事執行法131条1号が、執行官はこれらの動産を差し押さえてはならない、と規定しています。
6号では、次の動産も差し押さえることができないと規定されています。「技術者、職人、労務者その他の主として自己の知的又は肉体的な労働により職業又は営業に従事する者(前2号に規定する者を除く。)のその業務に欠くことができない器具その他の物(商品を除く。) 」。例えば、大学の先生は、職業柄、スーツの2・3着が必要ですし、借家暮らしであっても、自宅で仕事をするためにパソコンが必要です。授業の準備のために、少なくとも50冊程度の書籍は必要です。これらは、差押えが禁止された動産です。4号・5号も同じ趣旨の規定です。4号は農業を営む人についての規定で、5号は漁業を営む人についての規定です。これら3つの規定をまとめて、「職業の維持に必要な動産の差押えは禁止されている」ということができます。
なぜこのような規定があるのでしょうか。大学の先生が借金を返すことができないのなら、パソコンもスーツも差し押さえて、他の仕事に就かせればよいのではないか、という疑問です。
その理由は、次のように説明することができます。人は、ある職業につくと、簡単には他の職業に移ることはできません。現在の職業を続けることが、彼にとって最もよい収入をもたらす道であることが多いのです。長年農業一筋で生きてきた人に、明日から、セールスマンの仕事をせよと言って、よい結果に終る確率は低いでしょう。このことは、特に医師や看護師、大学教員のような専門職についている人にあてはまります。専門職に就くために、青年時代に多くの時間を費やして勉学に励み、職業能力を高めてきたのです。債務を返済できない状態になっても、その職業能力を生かす道を残しておくべきです。民事執行法は、このような考えに立って、職業維持に必要な動産を差押え禁止財産としています。
個人は、自己の債務について、現在の財産のみならず、将来取得する財産をもっても弁済しなければならないという責任を負っています。これを無限責任の原則といいます。
債務者が債務の弁済にあてるべき財産を有しない場合に、債務者を奴隷として売ったり、強制労働に服させるようなことは、現在ではまったく認められていません。しかし、債務者に財産があるか否かにかかわらず、債権者は債務者に対して弁済を要求することができます。債務者は、労働により収入を得ることができるかぎり、債務の弁済を続けなければなりません。その意味で、無限責任の原則は、「債務者は、死ぬまで働いて債務の弁済に務めなければならない」と言い換えることができます。
しかし、債務者がなんらかの事情で多額の債務を負った場合、端的にいえば、一生働いても弁済できないほどの額の債務を負った場合に、この無限責任の原則を厳格に適用すれば、債務者は、どんなに働いても一生貧しい生活を送ることになります。民事執行法152条1 項により、勤労収入の3/4は差押禁止財産となりますが、同項カッコ書きにより差押禁止額の上限は33万円です。それを越える金額は、すべて債権者により差し押さえられうるのが原則であり、債務者は、33万円以内で生活しなければならないことになります。その状態が死ぬまで続くとなると、彼は、働くことにより生活が向上するという希望を失い、働く意欲も失うことになるでしょう。
債務を返済できなくなった人も、我々の社会の仲間です。社会の一員として、再び幸福になる機会を与えられるべきです。経済的豊かさそのものが幸福というわけではありませんが、多くの人にとって、経済的な豊かさが幸福の重要な要素ですので、「経済生活の再生の機会」(破産法1条)を与えることが必要です。
そこで、不誠実でない債務者を債務の重圧から解放して「人間に値する生活」を営む機会を与えるために、破産免責の制度が用意されています(破産法12章1節)。これは、2つの段階から構成されています。
免責制度は、次の理由により、社会にとっても必要なことです。
免責制度は、債権者の犠牲の上に債務者を救済するものです。憲法29条(財産権の保障)に違反しないかが問題となります。最高裁判所昭和36年12月13日決定・民集15巻11号2803頁は、憲法違反でないとしました。破産法は、平成16年に全面改正され、新破産法が平成17年から施行されましたので、新破産法に即してその理由を説明しますと、次のようになります。
強制執行手続も破産手続も、基本的な役割は、債権者の権利を強制的に実現することにあります。しかし、債務者も私たちの社会の仲間です。社会の一員です。裁判所が主宰する手続においては、彼から全てを奪うことは許されません。不幸から立ち直って再び幸せになるチャンスを債務者に残すことが必要です。そのために、民事手続法は、さまざまな規定をおいています。
例えば、民事執行法では、債務者がその職業能力を発揮できるように、職業生活に必要な動産を差押禁止財産にしています。債務者は、強制執行により、金銭を取り上げられますが、職業能力はもちろん、職業能力を生かすのに必要な動産も取り上げられることはありません。
破産法は、破産した個人から幸福を追求するチャンスまで奪おうとしているのではありません。不幸の後で幸福を追求することができるように、破産免責制度を用意しています。
模擬授業では、参加者に2と3が配付される。
Author: 栗田隆
Contact: kurita@kansai-u.ac.jp
2010年7月25日−2010年7月26日