法学の世界は、基本的に言葉の世界である。法社会学的研究において数値データならびにグラフが重要となることはあるが、それでも中心は言葉である。とりわけ法解釈学の分野においては、そうである。解釈学的知識・思想の表現手段として言葉がもっとも簡便であり、ほとんどの場合、これで事足りるからである。もちろん、その前提として、表現する者(書き手・発言者・発信者)が表現しようとした知識や思想を表現の受け手(読み手・聞き手・受信者)が言葉を通して容易に理解ないし再現できることが必要である。そのためには、(α)受信者が言葉を通して新しい知識を習得する一般的能力を有しており、(β)話題について発信者と受信者との間で基本的知識が共有されていることが必要であろう。大学の法学教育においては、(α)の条件は基本的には満たされている。新入生は高校までの教育において言葉を通して新しい知識を習得する訓練を充分に受けているからである。他方、(β)の条件は入学当初は満たされていない。法律学に関する基本的知識をいかに効率よく与えるかは、法学教育の重要な部分の一つである。
法学の基本的知識の修得方法としては、入門講義を受けることと、入門書を読むことの二つの方法がある。学生にとって、入門講義と入門書とでどちらがわかりやすいかは、入門講義が行われる状況にかなり依存しよう。(α)講義が受講者数に応じた座席のある教室で行われているか、(β)大教室で行われていないか、(γ)担当者が早口でしゃべっていないか、(δ)言葉だけではわかりにくい部分を図を用いながら説明しているか、といったことが重要な要因となる。しかし、講義が理想的条件で行われるのであれば、入門書を一人で読むより講義を聞く方がわかりやすいであろう。詳しい説明を耳で聞き、板書された要点を目で読み、さらに言葉だけではわかりにくいことが図を用いて説明されるからである。
そこで、そのような講義をイメージした民法入門ソフトを制作することにした。講義形式のソフトの最も単純なものは、講義をそのまま録画したビデオであろう。しかし、要点の板書あるいは図解をより鮮明なものにし、試行錯誤の編集作業をしながらソフトを制作するとなると、コンピュータを用いる方がよい。講義の要点の理解を促進するためにコンピュータから簡単な質問をして学生に解答させるというインタラクティブな要素を持たせようとすれば、コンピュータソフトにしなければならない。幸いなことに、現在のパソコンは、文字のみならず、画像や音声も手軽に扱えるようになっている。 ソフトの制作に当たっては、次のようなことを想定し、期待した。すなわち、(α)このソフトの利用形態としては、このソフトをそのままコンピュータで見る方法と、内容を録画したビデオを見る方法の2つが考えられるが、関西大学法学部の設備の現状では後者が中心であること。(β)このソフトをコンピュータ上で見るかビデオで見るかは別として、ともあれ学生諸君がこのソフトを大学の情報処理教室、自宅あるいは大学図書館のビデオコーナーで見て、民法にある程度慣れ親しんだうえで大学の授業を受ければ、授業内容が理解しやすくなること、また、このソフトを通してある程度の予備知識をもった学生諸君を対象とすることにより、講義内容をより高度なものにすることができることである。
ソフトの制作上もっとも重要なことは、何をシナリオに用いるかである。民法全体を概観する簡潔なテキストで、内容をほぼそのまま朗読すれば講義となりうるほどにわかりやすい文体で書かれており、かつ利用許諾を得やすいものということで、澤井裕教授の『民法を学ぶために』(関西大学司法試験受験研究会)というブックレットを利用させていただくことにした(*1) 。財産法を中心にしつつも、親族法にも触れているテキストであり、全体をビデオにすると、170分ビデオになる。制作に当たって、板書事項ならびにスクリプトの作成は私が行った。朗読ならびにイラストの作成は2回生の石神希さんにお願いしたところ、期待していた以上のすばらしい仕事をしてくれた。この場をお借りして、彼女に改めて御礼申し上げたい。
この民法入門ソフトは、朗読をサンプリング周波数22KHzでそのまま録音している関係で、全部で199MBほどにも達する大きなものである。これを、26のスタックに分割してある。最初のスタックのアイコンを学生がダブルクリックすると、[図1]次のような表紙カードが開く。実際の画面は、256色のカラーであり、画面のギラツキを抑えるために背景にも淡い色が付けられているが、ここではカラーを使用することはできないのでグレイスケール表示であり、その関係で背景色は白にしてある。
[図1]
このカードが開くと、自動的に音楽がなるようになっている。画面の右上隅にあるイラストは、講義内容の著作者である澤井裕教授の似顔絵である。次のカードに進むためには、澤井裕教授の似顔絵の右横にある右矢印をクリックすればよい。2枚目のカードから講義が始まるのであるが、最初のうちはイラストが単なる挿絵として使われており、それらを紹介するよりは法律関係が図解されているカードを紹介する方が良いので、そのようなカードの中の最初のものを紹介しよう。それは、3番目のスタックにある最初のカードである。このカードが開くと、画面が[図2]のようになり、それとともに講義内容(テキスト)が朗読される。
[図2]
朗読に合わせて、板書事項が次々と現れて、朗読が終わった時点での画面は、[図3]のようになる。板書事項は、利用者である学生の目を負担を軽減するために、また、このソフトをビデオに録画した場合に文字の読み取りを容易にするために、原則として24ポイントの大きさで書かれ、場所が狭い場合に限り18ポイントの文字が使用されている。板書事項は、現在朗読中の要点が何であるかを印象的に示すために、次のいずれかの形式で現れるようになっており、そのいずれによるかは、乱数により定まる。
朗読が終わると、そのことを示すふくろうのイラスト(関西大学のマスコットマーク)が画面の左上に現れる(*2)。このカードの講義内容をもう一度聞きたいときには、画面の右上にある澤井裕教授の似顔絵をクリックすればよい。繰り返し聞くことができることは、初心者にとっては、重要な利点である。前のカードに戻りたいときには、似顔絵の左横にある左矢印をクリックすればよい。次のカードに進むときには、右矢印をクリックすればよい。
こうして、学生がカードを自らめくることにより、講義が進むのである。
この民法入門ソフトは、一種のマルチメディアソフトであり、おそらく法学の分野では初めてのマルチメディアソフトの試みであろう。そのため、毎日新聞(*3)で取り上げられた。
このソフトは、全体で199MB程の大きなものとなっており、その配布方法としては、光磁気デスクにコピーするか、ビデオデープに録画して配布するしかない(*4) 。現時点では価格的に見てビデオテープが一般的な方法となる。
ビデオの形式であれ、あるいは、コンピュータ上で直接見たのであれ、このソフトに対する評価は様々である。ビデオの形式で見た者からの評価の中には次のように辛口なものがあった。
このうちで、退屈であるとの評価は、おそらく法律学が宿命的に負う評価であろう。もちろん、シナリオを物語風にして、「シンデレラ」や「ジャングル大帝」などのアニメーション並みにおもしろくすることも不可能ではないが、手軽にできることではない。
これに対して、コンピュータで直接見た者からの評価は比較的好意的であった。コンピュータで直接見たのは関西大学の学生であり、かつ感想を書く紙に氏名と学籍番号まで書かせたためもあろうが、次のように勇気付けられるものであった。
このソフトの制作にあたって使用したコンピュータは、Macintosh Quadra 650であり、アプリケーションプログラムはHyperCard Ver.2.2.1 である。 制作は、1994年3月末に始めた。制作に当たっては、簡易迅速に制作できることを第一次的な目標とした。なにぶんにも初めての試みであり、早く具体的な形にすることが必要であり、また、当時手元にあって制作に利用可能なアプリケーションプログラムはHyperCard のみであり、このプログラムの場合には複雑なものを作ることより簡易迅速に制作することを目標にするのが適当と思われたからである。
当初は、HyperCard のバージョン2.1を使用した。これにはカラー化のツールがなかったので、モノクロームの画面で作成を開始した。しかし、モノクロームではやはり物足りないので、同年6月頃からカラー化することにした。当時はまだHyperCard のバージョン2.2.1が入手できなかったので、HyperTint というカラー化のためのツールを使用した。この段階では、HyperTint の有無によりカラーになったりモノクロになったりできるように、かなり複雑なスクリプトを書いていた。しかし、1995年2月に、カラーツールが付属したHyperCard のバージョン2.2.1を入手でき、この入門ソフトをカラー化されたソフトとして配布するメドも立ったので、スクリプトも単純化した。イラストは、手書きの絵をスキャナーで読み込み、SuperPaint を用いて変形あるいは色づけをした。
学生諸君への提供は、94年7月から、すなわちまだHyperTintを用いていた段階で、かつ試作品の段階で、LC5751台を用いて行った。関西大学法学部・文学部の共同利用の情報処理教室にあるLCIIでは、板書文字を移動表示する動作が遅すぎて、使用に堪えない。Perform 525 でもスピードが遅すぎた。もっとも、板書文字の移動表示をあきらめれば、これらの機種でも実用に堪えよう。
日本語の文章を自然な形で読み上げるプログラムが発展すれば、講義内容を人間が朗読してそれを録音する必要はないのであるが、現状では朗読を録音していかざるをえない。録音にあたっては、Quadra 650に付属の簡単なマイクとHyperCard に付属の録音機能を使用した。そのこと自体にはあまり問題はなかったが、不適当だったのは録音した部屋である。防音設備の整った部屋が気軽に利用できる範囲にはなかったので、通常の部屋で行った。しかし、1994年3月は風の強い日が多く、風が窓の隙間から吹き込むことによる笛吹き現象がおきた。当初は気にせずに録音したが、再生すると笛の音の大きさに愕然とし、窓に目張りをして笛吹き現象を止め、それから再録音となった。スタジオの必要性を痛切に感じた。
このソフトも成長して行くと大規模のものになり、スタックを分割することが必要となるので、自習ドリルソフトの場合と同様に、スクリプトはスタック「ResourceForLecture」にできるだけ集め、教材の入っているスタックの中のスクリプトはできるだけ少なくなるようにした。主要なスクリプトは、[資料1][資料2]に記載の通りである。
スタックの制作用に、民法入門という特別のメニューを設けてある([図4]参照)。
[図4]
教材が複数のスタックに分割されているので、スタックを鎖状に連結するための情報をどこかに格納しなければならない。この情報は、この教材をビデオに録画する最に特に重要である。試行錯誤の結果、1995年2月までは、各スタックの最初のカードに前のスタックと同じ名前を付し、最後のカード名に次のスタックと同じ名前を付して、スタックの連結を図っていた。しかし、現在(95年3月)では、後述のように講義カードの後にドリルカードを付けて、誤解答の場合には関係する講義カードに戻って再学習できるようにするので、この方法でスタック間の連結をとることはできない。各スタックに、前のスタックの名前あるいは次のスタックの名前を返すスクリプトを置くことにした。
制作の手順は、おおむね次のようになる。
(α)最初に、[資料1]に掲記のスクリプトがタイプされたスタック
「ResourceForLecture」を作成し、その後で講義内容の入るスタック(講義スタック)を制作する。
(β)講義スタックに[資料2]に記載されているスタックスクリプトをタイプする。
(γ)リソース用スタック「ResourceForLecture」のスクリプトが利用できるようにするために、講義スタックを一旦閉じてから、再度開く。このとき、バックグラウンドカードに次のパーツが自動的に付加される。
(δ)カラーツールを使って、バックグラウンドカードに次のカラー画像をいれる。
(ε)カラーツールを使って、朗読の終了を示すための適当なイラスト(例えば、関西大学のマスコットマークであるふくろうマーク)をスタックに入れておく。
(ζ)各カードを作る。
[図2][図3]のカードを例にして、各カードの作成手順を説明することにしよう。このカードの講義内容は、以下の通りである(澤井・前掲書11頁)。
カードの制作手順は、以下の通りである。
(η)まず、講義内容を適当に区切りながら録音し、録音された音声に適当な名前を付ける。上記の例では、各文の前にある数字と点の組み合わせが名前として使用された。名前には、数字以外に、アルファベットや漢字も使用できるが、便宜的な整理のために数字の組み合わせとした。この名前の部分は録音・再生の対象外である。
(θ)タイトルを表示するバックグラウンドフィールドに、「信義則に違反するということ」をタイプする。
(ι)カラーツールを使って、あらかじめ作成したカラーイラスト(ゴリラとネコと家)を張りつける。
(κ)長い矢印と文字(「貸し主」「借り主」)は黒色のままでよいので、標準のグラフィックツールを使ってカードに描く。
(λ)講義内容の朗読に合わせて表示される板書事項を書くためのカードフィールドを順次作成する。最初のフィールドには、「修繕義務」の語がタイプされるが、これは次のようにして作る。まず、メニュー「民法入門」から「データフィールド生成24」を選択して、24ポイントの文字を入力するためのカードフールドを生成し、それをドラッグして、貸し主のイラスト(ゴリラ)の上に置く。そして、「修繕義務」とタイプし、フィールドの大きさ等の属性を適当に変更する。このフィールドのようにカラーイラストの上にあるフィールドは、そのままだと下のイラストが透けて見えるので、カラーツールを用いて適当な色を付けておく。背景色と同一の色または白が良いであろう。
(μ)フィールドに名前を付ける。フィールドに付ける名前と録音データの名前とが同じである場合には、録音された音声が再生されると共に、そのフィールドが表示され始め、フィールド表示のためのコマンドは書かなくてもよい。録音された音声群の中に同じ名前のないフィールドを表示するためには、myShow
というコマンドを書く必要がある。このカードでは、次のようなフィールドが作られている。
(ν)カードスクリプトの編集画面を出して、次のスクリプトをタイプする。
on beginToTalk talk "1.8.1" talk "1.8.2" myShow "1.8.2-2" talk "1.8.2a" myShow "1.8.2a-2" talk "1.8.3" talk "1.8.3a" talk "1.8.3b*" end beginToTalk
このスクリプトは、講義者の似顔への下にあるボタンをクリックすると、実行される。学生の利用に供する場合には、カードが開くたびに講義が自動的に始まる方がよいので、その場合には、メニュー「民法入門」から「カードを開くと講義開始」を選択して、チェックマークを付けておく。ただ、講義スタック制作中は、カードの移動の度に朗読が始まるのは煩わしいので、スタックを開いた時点では、「カードを開くと講義開始」はOFFになっている。このスクリプトが実行される直前の時点で、全てのカードフィールドが隠される。
このスクリプトの最初のコマンドが実行されると、「1.8.1」の文が朗読される。これと同じ名前のカードフィールドがないので、画面に新たに表示されるものはない。2番目のコマンドが実行されると、「1.8.2」の文が朗読される。これと同じ名前のフィールドがあるので、朗読中に、「修繕義務」の文字が画面の所定の場所に現れる。その後で、同じく朗読中に(朗読される文が特別に短い場合は別であるが、通常は、朗読中に)、3行目にあるmyShow のコマンドにより、フィールド「1.8.2-2」が表示される。したがって、「費用を立替えて修繕」の文字が画面の所定の場所に現れる。以下、同様に朗読と板書が続けられ、最終的に[図3]のような画面となる。なお、このスクリプトの8行目に
talk "1.8.3b*"
というコマンドがあり、朗読される音声名の末尾に「*」が付いている点が他と異なる。この「*」は名前の一部ではなく、これと同じ名前(1.8.3)のフィールドを表示するときに、表示方法を前述のγ(所定の位置で、フィールド内に文字が順に現れてくる)からδ(点滅表示)に強制的に変更することを指示する記号である。γの表示方法は、フィールド内の文字の属性(フォント、スタイル、サイズ)をすべてそのフィールドの標準指定の文字属性に変更してしまうので、強調目的で標準以外の文字属性を使用している場合には、この表示方法は適当ではなく、表示方法の変更が必要だからである。
前のスタック(民法入門1A)への移動のために、次のスクリプトをスタックスクリプトに付け加える。
on getPrieviousStack return "民法入門1A" end getPrieviousStack
次のスタック(民法入門2A)への移動のために、次のスクリプトをスタックスクリプトに付け加える。
on getNextStack return "民法入門2A" end getNextStack
この入門ソフトにインタラクティブの要素を付加して、一層マルチメディアらしくするために、利用者がいくつかのカードを勉強した後、練習問題が出てくるように作り変えている。授業で言えば、教師がいくつかの事項を説明した後で、理解できているかを確認するための質問をするのと同じである。理解の確認であるので、難しい質問である必要はない。むしろ易しい質問をして、理解できたことあるいは知識を得たことの喜びを感じさせる方がよい。
例えば、市民法の3原則についての説明の後、次のような質問をすることが考えられる。
(質問1)
次のうちで、市民法の3原則に入れるのが、適当でないのはどれですか。1. 過失責任主義
2. 所有権の絶対
3. 無過失責任の原則
4. 契約自由の原則(質問2)
民法は、不法行為について、個人の活動の自由より被害者の保護を重視して、無過失責任の原則を採用していますか。
このようなQ&Aの実現は、自習ドリルソフトの制作に用いたスクリプトを流用すれば、容易に実現できる。もちろん若干の変更は必要である。例えば、誤答の場合には、もう一度関係する講義カードに戻るようにするべきであろう。その情報を格納するフィールドを新設する必要がある。2回続けて誤答を出した場合には、後戻りするという制御は必要ないであろう。したがって、成績表示において、後戻りの回数の表示も不要である。カラー化するのであるから、正答の場合および誤答の場合の絵表示もそれぞれ次のようなものに変えてよいであろう。
(正答の場合に表示される「笑い顔」)
(誤答の場合に表示される「泣き顔」)
自習ドリルのためのリソーススタック(ResourceForQandA)に入れるスクリプトは、 [資料3]に記載の通りであり、講義ソフトのスタックのスクリプトは、[資料4]に記載のスクリプトに置き換えられる。
ドリル問題の制作のために、[図5]のような「自習ドリル」メニューが付加されている。
[図5]
「質問カード作成」を選択すると自習ドリル用のカードが生成されるので、適当にデータを入力する。前述の質問1を入力した結果は、[図6]のようになる。フィールド「再学習」には誤答の場合に再度学習される講義カードの名前が入れられる。同じ名前が当該カードにも付されていなければならない。
[図6]
自習ドリル専用スタックの場合と同様に、解説も用意されている。解説の表示と再学習とでどちらを先に行うかは迷うところであるが、解説を表示してから再学習することにし、再学習後にもう一度練習問題をすることにしている。フィールド「再学習」は空のままでもよく、その場合には、解説があれば解説が表示してから次のカードに進むことになる。講義カードと質問カードの進行を図示すると、[図7]のようになる。
[図7]
(1995年3月稿)