成績評価の説明請求権

(せいせきひょうかのせつめいせいきゅうけん)[/教育/大学教育/]


大学教育において、成績評価が期末試験の答案の評価を重要な要素としてなされることがよくある。学生がその評価に疑問ないし不満をもった場合に、彼はなにをすることができるか。この問題は、当該期末試験の答案の評価により卒業の可否が決定される場合に深刻となる。

考えられるのは、まず、

 (α)学生が教員に対して説明を求めることである。次に、
 (β) 説明に納得できない場合に、成績評価の変更を要求することである。最後に、
 (γ)その要求が満たされない場合に、裁判所に救済を求めることである。

学生と私立大学との間には、双務的契約関係がある。学生は、大学に授業料その他の金銭を支払う。大学は、教員を通じて授業を提供し、成績評価を行い、所定の単位を修得した学生に卒業証書を授与する。学生が卒業証書を得ているか否かは、特に就職との関係で重要なことである。したがって、この双務的契約関係に照らせば、学生が大学に対して成績評価について説明を求める権利は肯定しなければならない。患者の医師に対する説明請求権が肯定されるとの同様である。

問題は、どの程度に説明すべきかである。学生が入学の申込み(出願)をする時点で、成績評価の説明義務について明示していれば、それは入学契約ないし在学契約の内容の一部となり、契約にしたがって解決されるべきである。ただし、成績評価について一切の説明をしないとの合意は、拘束力を有しないとされるべきであろう(民法90条により無効とされるか、1条3項によりその条項を援用することができないとされるであろう)。

では、入学契約ないし在学契約においてこの点の合意がなされていない場合はどうか。在学契約から生ずる付随的義務(ないし信義則上の義務)として、在学契約の趣旨にしたがい、大学は一定の範囲で説明義務を負うと解することになろう。

法的義務の点から離れて、実際上どこまで説明可能かを考えてみよう。説明の水準については、次の3つのレベルが考えられる。

 (α)点数のみを伝える。学生にとっては、自分の答案がもう少しで合格点になるのか、それとも0点に近い点数であるのかは、これまでの学習方法を点検し、今後の学習計画を立てる上で重要である。これだけでも、もちろん意義のあることである。しかし、学生の納得を高めるという点では、さらに進んで、次のような処理の方がよい。
 (β)採点基準と当該学生の答案を示しながら、なぜその点数になったかを説明する。
 (γ)合格点を与えられた学生の答案をも示しながら成績評価が公正になされていることを説明する。

(γ)の点まで進むことができるか否かは、実のところ、試験の方式に影響されよう。すなわち、択一式のように正解が明確で、採点ミスの余地のほとんどない問題については、ここまで進むことができる(もっとも、この方式の試験の場合には、受験者の得点分布を知らせれば足り、他人の答案まで見せる必要性も少ない)。

他方、論述式の試験については、(γ)まで進むことにはリスクが伴う。一般に、答案の採点にあたっては、優れた答案には劣った答案よりも高い点数が与えられるべきであり、実質的に同等な答案について同等の点数を付すべきである(順序原則)。しかし、現実には、多数の答案を様々な事柄を考慮しながら採点するのであり、考慮要素が増えすぎると採点に狂いが生じやすくなる(重要なキーワードについての誤字をどう扱うか、テニヲハに誤りがある場合にどうするか、結論は誤りであるが理由付けは堂々としている答案をどう扱うかなど)。また、採点が短期日に完了しない場合には、採点基準がずれてしまうこともある。採点基準を予め作成して採点を開始しても、採点しているうちに補充あるいは補正をせざるを得ないのが現実である。その結果、採点が上記の順序原則に従わないことが生じてしまうことがある。もちろん、それをできるだけ防ぐために、採点の見直しをするわけであるが、完全性は保しがたい。

しかし、だからといって、論述式の試験をやめて安全確実な択一式の試験をするのが大学教育として適当とも思われない。実社会では、文章表現力が要求されるからである。したがって、こうした採点ムラは一定の範囲で許容されることを前提にすべきように思える。といっても、どこまで許されるのかという難問が生ずる。


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2004年 11月 3日