学生のホームページをめぐる法的問題
−−サーバー提供者の責任範囲を中心にして−−
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関西大学法学部教授
栗田隆
1996/9/29 初稿
1996年10月3日の大阪大学での研究会のための報告準備原稿
- はじめに
- 学生の責任と大学の責任
- Webにおける責任の原則
- 著作権問題
1. はじめに
パスカルやデカルトが言うように、人間は考える葦であり、考えることができるがゆえに自分の存在を確信できるのである。人間は、自分の考えや思いを他人に伝えることに悦びを感ずる動物でもある。自己を表現し、他人の思想・感情を知ることは、人格の発展にとって不可欠のことでもある。そして歴史は、思想の自由な流通が民主主義の維持に不可欠なことも教えている。
それゆえ、より多くの者が自己の思想・感情をより多くの人により簡便に伝えることができるようになることは、すばらしいことである。今、インターネット、なかでもWebの普及により、それが実現されようとしている。数年前には、考えられもしなかったことである。もちろん、多数の者が一斉に自己表現をした場合には自己表現の氾濫となり、平均して見た場合に、一人当たりの自己表現が実際に伝えられる相手の数は、それほど多くないことになろう。しかし、それは重要ではない。自己の思想・感情を多くの者に伝達する手段が多くの者に与えられること自体に意味がある。Webによる自己表現機会の拡大は、自己表現機会の平等化であり、それが急激であるという意味で、表現機会の平等化革命と言ってよい。
したがって、インターネットによる新たな表現手段の利用を学生に教えることは、現在の大学にとって重要事項の一つといってよい(注1)。すでにいくつかの大学がその方向で動き出している。そこで本稿では、大学の施設を利用して学生がWebのページを開設した場合に生ずる問題を検討することにしたい。
問題の発生の根源は、もちろん、次の2点にある。
- 自己表現は、美しいバラの花であるとともに、他人を傷つけるトゲにもなりうる。自動車が文明の利器であるとともに、走る凶器でもあるのと同じである。
- 自己表現といっても、すべての者がすべての類型の表現にたけているわけではない。言葉による表現は、義務教育を通して、大抵の日本人が修得しているが、音楽や画像による表現は、そうではない。人によって得意・不得意がある。得意な者は、表現すべきものを思い浮かべ、そしてそれを表現することにより表現技術がさらに発達する。不得意な者は、表現すべきもの思い浮かべることすらできなくなる。不得意な類型の表現については、他人の表現(著作物)を用いて補おうとする。このこと自体は、肯定すべきである。しかし、創作性のある表現は、表現した者の人格の表れとして、また、財産として保護すべきことに我々は合意し、著作権法を制定している。他人の著作物の無断利用は許されない。
以下では、学生のHTML文書等が大学のサーバー用コンピュータから読者のコンピュータに有線送信され、読者がWeb閲覧ソフトによりそれを閲覧する場合を想定する。文書がサーバー用コンピュータにより自動送信されうる形でハードディスクに配置されることは、World Wide Web という大きなシステムの中で、誰もがいつでも閲覧できる状態にしたことであり、これを比喩的に「著作物をWeb(ないしWebサーバー)に掲載した」ということにする(注2)。著作物をWebに掲載する者は、その著作物を有線送信する者である。
2. 学生の責任と大学の責任
2.1. ホームページを開いた学生と大学との法律関係
学生の作成したHTML文書が大学の管理するコンピュータから有線送信されるようになっている場合に、その学生と大学との法律関係は、学生と大学との合意によりさまざまに定められうる。さしあたり次の二つのタイプの法律関係が考えられる。
- 国公立大学の教官ないし私立大学の教員(以下、両者を併せた意味で教員の語を用いる)が有線送信の主体となり、その内容物の一つとして学生の著作物を利用するタイプの法律関係(著作物の利用許諾)。
- 大学が学生にWebサーバーの利用を許諾し、学生が掲載する文書の内容を自由に決めることができ、従って、有線送信の主体は学生であると評価できるタイプの法律関係(サーバーの利用許諾)。
両者の違いの要点は、有線送信する者が教員かそれとも学生かという点にある。そのちがいは、具体的には、次のような差異をもたらそう。
- 両者の違いは、まず、学生の著作物の掲載が教員の判断に委ねられているのか、それとも学生に委ねられているか、という形で現れる。この違いは、学生の著作物が他人の権利を侵害している場合に、教員ないし大学がそれを防止するために払うべき注意義務の程度の違いとして現れよう。教員が有線送信者となって学生の著作物をその許諾を得て掲載している場合には、通常の図書出版における出版社と同様な注意義務が課せられよう。他方、大学が学生にサーバーの利用を許諾しているにすぎない場合には、その注意義務は軽減される。どの程度の注意義務を負うかは、これから検討されるべき問題である。
- もし仮にページの閲覧が有料であるとすれば、有線送信している者が料金を収集できるのであるから、料金収集権者は誰かという形で現れよう。しかし、大学の施設を利用したWebのページの閲覧が有料となることは当分ありえないから、この差異は、当分実際上の意味をもたない。
どちらの法律関係を選択するかは、各大学の事情により異なろう。学生の文書が他人の権利を侵害すること、特に差別的文書が掲載されることが恐れられる状況下において、それにもかかわらず教員が学生に表現の機会を与えようとすれば、教員が有線送信者になるより仕方がない。
しかし、自由な表現の機会をできるだけ多くの者に与えることが社会の進歩であると考えるならば、学生自身が有線送信者になるようにすべきであろう。問題は、学生が掲載する文書により他人の権利が侵害される危険性を少なくするためには、どのようにすべきかであり、また、現実に学生がWebに掲載した文書を巡ってトラブルが発生した場合に、大学ないし教員はどのように対応すべきかである。以下では、学生が有線送信の主体となっている場合について議論することにしよう。
2.2. 学生の責任
学生が大学の用意したWebサーバーに自己の文書を自己の責任において掲載することは、表現の自由の観点から肯定的に評価されるべきである。大学生の中には未成年者もいるが、未成年者といっても18歳以上が通常であり、自己の行為により他人が損害を受けるか否かを判断する能力(民法712条)は十分にあり、大学または親権者が民法714条の監督義務を負うことはないものと考えたい。学生が有線送信により他人に損害を与えた場合には、その賠償責任は彼自身が負うべきである。
2.3. 大学の責任
学生の責任能力を肯定する以上、Webサーバーの利用を許した大学が民法714条の監督責任を問われることはない。したがって、サーバーの利用者である学生の有線送信行為により他人が損害を受けた場合に、大学が被害者に対して負う責任は、一般のサーバー提供者(インターネットプロバイダー)の責任と同様に考えてよい。
とはいえ、大学生が通常使用しうる他の表現方法(例えば、口頭での表現、ビラや貼紙による表現)に比較してWebによる表現が、伝達範囲ならびに継続性の点で格段に強力であることを考慮すると、他人の利益(特に、名誉権と著作権)を侵害することがないように啓蒙活動を行うべきことは言うまでもない。
3. Webにおける責任の原則
人は、自己の思想・感情を他人に知られることなく特定の者に伝える自由を有し、それは通信の秘密として保護されなければならない(憲法21条2項)。そして、電話等の通信については、その通信内容のみならず、通信当事者が誰であるかも、原則として秘密保護を受けるべきである。コンピュータ通信もそれが特定の者から特定の者に対してなされる限り、通信の秘密として保護されるべきである。
しかし、その通信相手の特定性・限定性がなくなれば、通信の秘密としての保護は弱められるべきである。Webでは、不特定多数の者からのリクエストに応じて文書が自動的に送信されるのであるから、Webへの文書の掲載は、公開の場への文書の掲載であり、もはや特定人の特定人に対する通信とはいえない。内容の秘密性は発信者自身が放棄している。そのようなものについて、発信者の身元のみを秘密として保護する必要は小さい。Webによる表現が到達範囲ならびに継続性の点で強力な表現手段であることを考慮すると、Webへの文書の掲載により他人の権利が侵害された場合には、誰が掲載したかが明らかにされるようにすべきである。自己の名誉が害されたり、あるいは著作権が侵害された場合に、加害者を知ることができなくては、損害賠償はおろか、その侵害行為を中止させることもできない。国民がすべてこうした形で他人から攻撃されうるというでは、憲法13条により保障された幸福追求権は、空虚なものとなる。匿名は、無責任な行為を誘発する根源である。Webは強力な表現手段であるから、被害が生じた場合には加害者が誰であるかを特定することができる体制を用意しておく必要がある。サーバーの管理者ないし設置者は、その点について責任を負うものと考えたい(注3)。その責任は、具体的には、次のようになる。
- サーバーの管理者は、身元不明の者にサーバーの利用を許諾すべきではない。
- 身元不明の者に利用を許諾した場合には、その掲載内容については、サーバー管理者が利用者に代わって責任を負う。
このような責任を認めることにより、被害者から見れば常に責任者が存在するようにすべきであろう。
3.1. Webサーバーの利用者の住所の開示
ただ、このことは、Webサーバーの利用者の氏名のみならず、住所まで公開すべきことまで意味しない。住所や氏名が公開されれば、それがまたプライバシーの侵害等の契機となる。また、政治的思想を学生がWeb上で表明した場合に、その学生がそれに反対する思想の者から一方的な攻撃(身体・財産への攻撃)を受ける危険にさらされることになろう。どの範囲のことを公開するかは、基本的には、サーバー提供者と利用者の合意により自由に定めうることであるが、住所まで公開するのは適当ではなかろう。大学にあっては、氏名・学部・学科・学年を限度としてよいであろう。
他方、サーバー利用者の有線送信行為により権利を侵害されたと主張する者がその住所氏名を明らかにすべきことを求めてきた場合には、サーバー提供者はこれに応ずるべきである。この場合に、サーバー提供者が利用者の住所を開示しないことは、被害者の裁判を受ける権利を実質的に否定することになる。サーバー提供者が利用者の住所を明らかにしないまま、利用者の有線送信を放置する場合には、これにより生じた損害については、サーバー提供者も不法行為責任を負い、被害者に対して損害賠償義務を負うべきである。
ただ、被害者と自称する者の要求の中には、単なる言いがかりに過ぎないものもあろう。その場合には、サーバー提供者は、それに応ずる必要はない。むしろ、利用者との信義則上の義務として、住所を明らかにしない義務が肯定されよう。とはいえ、具体的な事例がこれにあたるかの判断が微妙で困難な場合もあろう。その場合に、サーバー提供者にあまりにも正確な判断を要求すれば、その問題を避けるためにサーバーの提供自体が中止されることになる。それは、表現の機会の拡大・平等化の観点から望ましいことではない。疑わしい場合には、次のようにすれば、サーバー提供者は責任を免れると考えたい。
- 相手の住所と氏名を確認する。
- そうした抗議が来ていること、相手の住所、および利用者が自ら解決できない場合には相手の権利行使を可能にするために利用者の住所を開示する旨をサーバー利用者に通知する。
- 利用者が自ら解決できないことを確認の上、相手方に利用者の住所を開示する。
3.2. サーバー提供者のその他の義務
Webに掲載された文書が他人の権利を侵害するものである場合に、サーバー提供者はそれを中止させる義務を負うのか、負うとしてどの範囲で負うのかを考えてみよう。一般論として、そうした義務を広く認めることは、結果的に表現機会の拡大を鈍らせることになり、望ましいことではない。とりわけ、利用者が掲載する文書の内容を事前に点検する義務まで課すことは、表現の自由を規定する憲法21条の趣旨に鑑み、認めるべきではない。
利用者がWebに掲載した文書を定期的に見て、違法行為が行われていないか監視する義務も認める必要はないであろう。一つの大学で1000を越える学生がWebに文書を掲載することは、予想の範囲内のことであろう。その内容を精査することは、膨大な手間を必要とし、現実的ではない。
一般的な監視義務は否定すべきであるとしても、違法な著作物の存在を被害者からの抗議あるいは他の者からの通報により知った場合は、どうか。サーバー提供者は、単にサーバーの利用を許諾しているだけであり、その内容については関知せず、被害者にサーバー利用者の氏名・住所を開示すれば、それで責任を免れると言いきれるかが問題となる。サーバー提供者に何らかの責任がかかるとすれば、彼は、責任追及を恐れて、利用者に文書の掲載の中止を求め、それが受け入れられない場合には、サーバーの利用契約を解除する方向に走りやすくなる。それは表現の機会の縮減となろう。その視点からすれば、サーバー提供者の責任は認めない方がよい。
しかし、他方で、違法性が明白な文書が掲載されている場合に、被害者が常に加害者を相手に差止の訴訟を提起するより仕方がないとするのも、問題ではなかろうか。大学内では問題とならないが、たとえば、違法著作物ばかりが掲載されているサーバーができたとして、個々の被害者が個々の加害者を相手に損害賠償などを求めていても、その加害者が無資力であれば、賠償請求は救済にはならない。たとえその加害者が掲載をやめても、次の加害者が出現しよう。やはり、サーバー提供者は、自己のサーバーに違法性が顕著な著作物が掲載された場合には、その掲載を中止させ、他の者の権利が侵害されないように配慮する義務があると考えたい。ただ、サーバー提供者がそのような義務を負うのは、掲載物の違法性が顕著な場合に限られ、その他の場合には、掲載者の住所氏名を被害者に明らかにすることにより責任を免れるとすべきであろう。
サーバー提供者がそのような義務を負うことを認める以上、サーバー提供者は、被害者からの抗議あるいはその他の者からの通報を受け付ける窓口を用意しておくべきであると考えたい。そこまでするのは、いささか大袈裟にも思えるが、
- 一般の図書では出版者あるいは発行者の氏名が明らかにされ、違法文書による被害者は第一次的にはそこに抗議を行えばよいこと
- Webによる情報伝達が通常の図書の場合よりも広範でかつ継続的であり、いったん侵害行為がなされると、深刻な被害が生ずること
を考慮すると、抗議を受け付ける窓口は開かれているべきであろう。
3.3. サーバー利用契約に盛り込まれるべき内容
以上のことを基にして、大学が学生にサーバーの利用を許諾する契約の内容に盛り込まれるべき事項ついて、考えてみることにしよう。
学生が大学のWebサーバーに自己の文書を掲載することができる根拠は、当事者間の合意にある。その合意が将来は入学契約の中に含まれることも予想されるが、現在は、入学契約とは別個の合意である。その合意の中で、大学は、どのような利用制限を課すことができ、また課すべきか。
これまでに論じてきたことから、次の内容が盛り込まれるべきである。
- 民事上あるいは刑事上違法な文書を掲載してはならない。違法文書が掲載された場合には、サーバー提供者は、利用契約の解除ないし利用許諾の取消しができる。
- 違法文書に被害を受けたと主張する者が現れた場合には、サーバー提供者は、利用者に通知の上、利用者の住所氏名を明らかにすることができる。この場合には、サーバー提供者は、被害を受けたと主張する者の住所氏名が利用者に明らかになるようにするものとする。
- そして、自己の文書に責任をもたせるために、利用者たる学生に実名を表示する義務を課すことが好ましい。学部や学科学年をも表示させるかは、大学により異なろう。変名の表示を許可する場合には、変名から実名を知ることができるようにサーバー提供者がデータベースを用意すべきである。
問題は、違法文書とは言えないが、大学がWebへの掲載が適当でないと考える文書の掲載を制限することができるかである。例えば、次のようなものがその候補となりえよう。
- 物品売買の情報
- 刑法により禁止された猥褻物とは言えないが、それに近い図画
- 差別を助長することにつながる文書
- 宗教団体の文書
- 大学の品位を損なう文書
Webサーバーの利用が当事者の合意(ないし許諾)に基づく者である以上、そこに掲載することができる文書の範囲も、原則として、当事者の合意により限定できると考えるべきである。しかし、合意によりすべてを自由に決定できるわけではない。当事者の合意も、憲法が基本的人権として保障した基本的価値を尊重すべきであり、その点から一定の制約をうける。特に重要なのは、平等原則であろう。特定の宗教に関する文書あるいはあるいは特定の政治的傾向の文書の掲載を禁止することは、許されない。
その他については、表現の自由の制限というより、自己表現の機会の限定的拡大と理解して、一応肯定してよいであろう。但し、政治に関する文書の掲載を一般的に禁止することは、学生を政治から遠ざけさせ、主権者としての意識を埋没させることであるとの批判を受けよう。制限しない方がよいであろう。
4. 著作権問題
学生がWebにより自己表現を行う場合であっても、他人の著作権は尊重しなければならないことは、いうまでもない。しかし、著作権の尊重を唱えるだけで問題が解決されるわけでもなかろう。
学生は、営利のためにWebに文書を掲載するのではない。自己を表現するためである。その場合に、他人の著作物をそのまま掲載することは、自己を他人に置き換えることであり、自己否定につながる。そうした形で他人の著作物を利用することは少ないであろう。むしろ、自分を美しく表現しようとしながら、自分の力だけではそれができずに他人の著作物を補助的に使用すると見るべきであり、それは肯定的に見るべきであろう。
したがって、サーバー提供者がなすべきことは、著作権思想の普及と共に、Web上で無償で利用することができる各種の素材を収集することではなかろうか。幸いなことに、若者は大らかである。イラストであれ、音楽であれ、録音であれ、自分が得意とする種類の著作物を1つあるいは2つ無償で提供することをいやがらない。教員は、無償で提供してくれる学生の意欲をかきたてるような形で、それをデータベース化すればよい。それがうまくいかなれければ、何らかの研究助成金を得て、学生にアルバイトとしてそうした素材を作成してもらうことである。学生の数は多く、才能のある学生は必ずいる。
学生から提供された作品については、著作者人格権の侵害が起きないような形で有効に利用されるように、著作者の氏名表示や同一性保持について明確な規定を置くべきである。
注
(注1) Webのページ閲覧は、この1・2年で大抵の大学において学生に開放されるようになった。この急激な変化に決定的な影響を与えたのは、企業が求人情報をWebに掲載するようになったことと見てよいであろう。大学にとって、学生の就職は死活的事項であり、その影響力は、極めて大きい。求人情報のWebの掲載は、今後も継続しよう。各種の求人情報誌に求人情報を掲載するよりも、その方がコストが安いであろう。環境保護の点から見れば、求人情報紙に用いられる紙資源の節約となる(Webのページの閲覧に用いられるコンピュータに使用される電気エネルギーとの比較という難しいの問題はあるが、森林資源の保存の方が重要と考えてよいであろう)。大学から見れば、従来の求人情報紙がすべての大学のすべての学生に平等に配布されていたのではないことを考慮すると、求人公告に接する機会の平等化となる。こうした理由により、Webによる求人公告の普及は、ぜひ望みたいところであり、そのためには、適切なリンク集が編集されることも必要であろう。(本文に戻る)
(注2) 著作物をWeb上で発行したと言っても良いが、ハードディスクにファイルを配置することとの関係で、日本語としては、「発行」より「掲載」の方がわかりやすいであろう。(本文に戻る)
(注3) 同様な問題は、e-mailや newsにも生ずるが、Webとの機能的な差異、ならびに情報伝達の自由(特に、独裁体制下での自由)をも考慮すると、これについてまで身元確認を要求することは行きすぎとなろうか(Webサーバーは、比較的に容易にその所在を突き止められよう)。(本文に戻る)